雪香(ゆきか)が春を感じるのは、晴れでも雨でも、空の色の変化で。
暗くて、どこか鈍い青だったのが、だんだん薄く、澄んだ水色を帯びてくる。
「そういうのを、水彩で描いてみたいんだけど…言うは易し、だわね」
きょうは、今にも降り出しそうな、重たい曇り空。
放課後、高校の美術部アトリエ。
他の部員は、実行委員会やら塾やらで、不在。
そろそろ、下校放送も流れそうな頃合い。
眼鏡を直しながら、今日はもうやめにしようか、と思う。
「雪香、一人だったの?きょう。ね、一緒に、駅まで帰らない?」
隣の部室から、同じクラスの可憐(かれん)が、ポニーテールを揺らして、ひょい、と顔を出す。
指で、英会話同好会の鍵をチャラチャラと回しながら。
少しずつ明るい時間が増えてきた夕刻の通学路を、二人で歩く。
幸い、次の電車までは時間があるので、走らないですんだ。
「ねえ…可憐って、部活、一人の時は何やってるの?話す相手がいないんでしょ?」
「ん、まあねぇ。リスニングのCD聞いたりとか、パソコンにDVD入れて、スキットの練習するとか、そんなもんかな」
「ふうん…授業みたい。楽しいの?」
「そりゃ、私たちの代で立ち上げた同好会だもん、面白いに決まってるわよ!将来、留学とか海外赴任とかするの、夢なんだから~」
(すごっ。そんな将来の事なんか、私、考えてないよっ)
…と、雪香は思った。
「雪香の部活は、いいよねぇ。一人でもできるし、綺麗だし、クリエイティブで。とらわれない感じがする」
高校生にしては、やや童顔な可憐は、にっこり笑って雪香を見やる。
「…でも、その代わり孤独な時もあるよ。合同制作とかやると、ケンカっぽくなるし」
「てことは、自分をはっきり持ってる人の集まりなのねー、美術部って」
「そ、そう…なのかな…?」
まあ確かに、皆それぞれ、好き勝手なものを作って満足してるけど。
「これから、どうなるんだろうね、私たち」
唐突な可憐の問いかけに、雪香は
「えっ?」
と驚く。
腰まで伸びたストレートが、心を映すように、さらさらと揺れる。
「大学行ったり、専門学校行ったり、すぐ勤めちゃう子もいるじゃない?フリーターでいく子とか。その時、今やってる勉強とか部活とか、何かの役に立つのかなぁ…」
「英語は役立つじゃない!何になるにしても、絶対できる方がいいと思う」
「でもね、美術とか音楽とか、そういうのって、才能って言うか…選ばれた人に与えられた、素敵な贈り物だと思うよ。英語は、やればある程度、誰でもできるけど、雪香みたいな絵、私、描けないもん」
可憐の言葉で、何だか急に、雪香は照れくさくなった。
「だけど…思った通りの色が出なかったり、線が引けなかったりするの、すごく悔しいの。どうしてできないんだろうって、思っちゃう」
さっきまで持っていたもやもやを、雪香は、可憐に打ち明けてみた。
「それは、絵って、写真じゃないもん。雪香の想いが入るから、100%完璧になんて、無理だし、つまんないよ。…私、そう思うなぁ」
「そう、かな……」
とりとめもなく話すうち、駅舎が二人の視界に入ってきた。
と、同時に、細かい雨がしとしと…と、降り始めてアスファルトを濡らす。
「あら、月さま、雨が…」
可憐が、年に似合わず古風な台詞を、茶目っ気たっぷりに雪香へ投げる。
「…春雨じゃ。濡れてゆこう」
雪香も負けずに返し、二人でくすくす…と笑い合う。
「やだ、可憐ったら。何でこんな古い台詞知ってんのよ?」
「あらま、そういう雪香こそ」
「…私はね、自分の名前がお天気に関係ある、って理由もあるし、思い通りの淡い春雨の絵を、いつか、描いてみたいなぁ、って思ってるの…。だから」
「いいね…」
可憐のその一言で、ちょっと、描けそうになってくる気持ちが、雪香自身も不思議。
「ねえ、可憐。さっきの台詞、英語で言うと、どうなる?」
「えーっ?! んーと、ミスター・ツキガタ、イット レインズ。かな…それでぇ、返事が…イット レインズ オブ スプリング?濡れていこう、は…えーと、ええーと、レッツ、レッツ…ちょっとぉ、雪香、笑ってないで、『濡れていく』って、どう言ったらしっくりくるの?教えてよー!」
一生懸命頭をひねりながら、雪香に助けを求めてくる可憐は、名前通り、同級生から見ても可愛らしくて、ずっと見ていたくて、わざと雪香は笑いながら答えない。
ほんとうに、これからどうなっていくんだろうね、私たち。
いつか、この春雨の中で笑い合った事を、お互い思い出すことがあるのかしら。
二人がそれぞれ乗り込む電車がもうすぐ到着する、と、駅の無機質なアナウンスが告げ始めた。
(おわり)