2011年1月30日日曜日

双子ぢゃなくってよ。(其の七)

振り向くと、そこに、一人の上級生が穏やかに微笑んでいらした。
紫紺の袴は制服なので珠子さんと同じだけれども、銘仙のお召し物の柄は、藤色と浅葱色の細かなダイヤ市松模様で、地味だけどもどこかモダンな、そのお姉様に似つかわしいものだった。
「珠子さんね?…私、絹江。甘露寺(かんろじ)絹江よ。…お召し物とお揃いの可愛らしいお花、どうもありがとうございます」
目を丸くして、コクン、と珠子さんは頷いた。それから、ややあって、
「あのう…、絹江様は、その、どうして、私のことを見つけられて、素敵なお手紙とお花を…?」
と、問うので精一杯。
「ああ、それはね、ごめんなさいね。私の勝手なお節介からなのよ」
「?」
「珠子さん、つい先だってまで毎日、放課後遅くまでお一人で、ため息ついてらしたでしょう?
見かけてから、私、何か貴女にお困り事がおありだったら、お話を聞いて差し上げたくって、それでね、毎日物陰から拝見していたのだけれど、どうしても、声をおかけする勇気がでなくって…」
申し訳なさそうに、少うし首をかしげる絹江さんの姿は、まさしく優美なガーベラそのものに見えた。

2011年1月25日火曜日

双子ぢゃなくってよ。(其の六)

あくる朝。
昨日のうちに目をつけておいたチューリップを一輪手折ると、珠子さんは侍女のたけをせかすように、人力車をありす女学校へと走らせなさる。

「近頃、お裁縫がお嫌と見えて、おゆるゆるであそばした(=ゆっくり登校していた)のに、今朝はお早くていらっしゃるのですね」
「もう、お裁縫の課題は提出いたしましたから」
「今日お召しの銘仙、先だっては『子供みたいで、もう着たくない』とおっしゃっていたのに、お不思議な事。お手になさったチューリップと、お揃いになさったのですか?」
「そうよ。…たけ、何度も申しますけれど、もうわたしも女学校に入ったのですから、あまりあれこれ詮索なさらないでいただきたくてよ。よくって?」
「はいはい、承知つかまつりましてございます。珠子お嬢様も、もうそんなお口をお聞き遊ばすお年頃になって…」
「お静かに、たけ。人力の揺れで、舌をかんでよ」
「おお、こわ」

それまで、甘えたり相談相手になったりと、とても頼りになっていたはずの侍女という存在が、どうしてだろうか、ここ数日でとても邪魔っ気に思えてしまうようになっている。

珠子さん自身にも、それが女学生になったためなのか、または藤組の君・・・きぬえ、という名の上級生からお手紙を戴いた、そのときからなのか、釈然としてはいない。

もやもやとした、今までのぬくぬくとした巣から抜け出したくて、でもどなたか慕わしいお話相手が欲しいような、何とも言えないこの気持ち…。

無理もない。
後の世の人々が「思春期」と呼ぶ時代の、そのとば口に、珠子さんは立ったばかりなのである。

ありすの礼拝塔が見えるや否や、珠子さんは得意の跳躍力で、風呂敷包みとチューリップを抱えたまま、跳ぶようにして人力車を降りた。
「三年藤組の、きぬえさま…」
お背が高いのか、草履箱のやや上段に、その方の名前を記した木の蓋を認めた。
そうっ…と、蓋を開けてみる。
級友達の悪戯をちょっと心配していたが、それはなく、菫色の縁取りがされた端正な部屋履きが、一足あるきり。
(よかったわ…)
大きな花弁を散らさぬように、靴に花粉をつけぬように、そうっと、珠子さんはチューリップを置いた。

2011年1月24日月曜日

双子ぢゃなくってよ。(其の伍)

その夕方。
いつもより早くお家へ帰られた珠子さんは、和箪笥から、学校へ着ていく着物を取り出して衣桁へ掛けた。
朱色の地に、チューリップの柄が飛んだ、桐生の本銘仙。
それから、お庭の花壇に出て、明日の朝に開きかけていそうな、つぼみのチューリップを探す。
こちらはさすがに朱とはいかず、深紅に近い濃い桃色を一輪、見つけた。

戴いた便箋とお揃いにしようと、着る物は朱を選んだ。
でもお相手がどんな方か分からないので、珠子さんは、自分が一番好きな花を差し上げることにしたのだ。
(子供っぽい、と思われるかしら…?)
でも、こちらはまだ入学間もない身、あちらは藤組の君と騒がれる上級生。背伸びをすることもない、そう珠子さんは考えた。
(ねんねさんで、お話相手にもならないのなら、いっそ早々に諦めて下さった方が、わたしも恥をかかなくていいかも…)

おやおや、いつもの甘えたさん振りはどこへやら、ちょっと殊勝な珠子さんである。

2011年1月22日土曜日

双子ぢゃなくってよ。(其の四)

翌朝、ようよう先生の指示した所まで仕上げたお裁縫を抱えて、珠子さんがお教室へ入ろうとすると、
級友の誰も彼もがニコニコと、またクスクスと笑いながら、珠子さんを出迎えた。

「ごきげんよう、珠子さん。良い朝をおめでとうございます」
とか
「珠子さん、素敵なあめのみつかい(=天使のこと)から、贈り物が届いていてよ?」
とか、耳元でささやきながら、ひらひらと蝶々のように皆して、廊下へ出て行ってしまった。

「何の事かしら、いったい…?」
と、自らの机を見ると、木の蓋にこしらえられたその机の上には、朱色の細長い便せんと、朝摘みかと思われる優しいうす桃色のガーベラが一輪。
ドキン、と、心臓がひとつ、大きく跳ねた。
(まさか、お兄様が昨日お話なさっていた事が、今朝、突然に起こるなんて!)

あわてて、荷物を椅子へ置くと、花びらを散らさぬようにそうっとガーベラを机の上へ置き直し、立ったまま珠子さんは朱色の封筒を開く。
中の便せんは真っ白で、そのふた色の対比が目にも鮮やかで、またどこか大人びても感じられた。

 突然のお便り、なにとぞお許し下さいませ。
 いつも放課後にお教室で寂しそうにしている貴女が、気になりまして一筆差し上げました。
 小さな花束のように可愛らしい貴女へ、上級生として何かして差し上げられる事はございましょうか。
 もしお嫌でなかったら、何でも貴女のお好きなお花を一輪、明朝、私の草履箱へお入れ下さいまし。
 乱文、失礼いたします。
                          参年藤組  きぬえ

声に出さずに読んでいたはずなのに、珠子の視線が便せんのしまいで止まった途端、物見高そうに廊下から眺めていた級友達が、ワッとお教室へなだれこんできた。

「どら、見せて頂戴、珠子さん。どなたからのお手紙…?」
「マア素敵、藤組の君からよ! きちんとご署名まであるわ、お戯れじゃなくて、本当のお申し込みね」
「当たり前よ、絹江様がお戯れなぞするはずないじゃないの」
「これは断然、お受けするべきよ、珠子さん。籤引きなら赤玉、文句なしの特一等のお相手だわ!」
「絹江様を籤引きの赤玉になんぞ、例えないで頂戴な!」
「あら怪しい、あなた実は、珠子さんにお手紙が届いたのを、妬いていらっしてるんじゃない?」
「違うわ。おしつこいあなたこそ、もしかして藤組の君を…」

当の珠子さんは、級友達の熱烈な騒ぎを、一歩引いてただぽかぁんと眺めていらっしゃるので精一杯。
(きぬえ…さんって、皆様のお話だと、悪いお方ではないみたい。でも、そんな方が、どうしてわたしなぞ…? わたし、明日、一体どうしたらよろしいのかしら…)
そこへ、礼拝堂の鐘がカラーン、カラーンと響き渡り、皆はそそくさとお教室に並べられた各々の座席に収まっていった。 

2011年1月21日金曜日

双子ぢゃなくってよ。(其の参)

自分用に頂いた部屋で、銘仙と制服の袴を脱いで、明朝のために襞をよく調え、押しをしておく。
そうして、家でいつも着ている、関西の伯母様から頂戴した鴇色地のお召に着替えると、珠子さんはようやく人心地ついた。

お八つを召し上がるのもそこそこに、お持ち帰りの和裁に取りかかる。
「裁つあたりは全然難しくなかったのだけれど、襟付けが何度やっても上手くいかないわ、嫌んなっちゃう…」

そこへ、半分開いた襖の向こうから
「ヘン、俺たちの幾何や白文素読なんかより、数段楽なことやってらぁ。女学校は、気位ばかりつんつんお高いけれども、その実、裁縫学校と変わらないじゃないか」
と、的を得ているだけに小憎らしい台詞は、3つ年上のお兄様の声。

いつもなら『マア、何よ!』とくってかかる珠子さんなのに、今日はさすがに元気なく、
「…全く、おっしゃる通りね。裁縫学校に入るつもりなんか、わたし、なかったのに…」
「オイオイ、そう時化た声をだすもんじゃない。その代わり、女学校には女学校にしかない『お楽しみ』が、あるはずだろう?」
しょんぼり俯く珠子さんを、あべこべにお兄様が励ますことになってしまった。

「えっ、『お楽しみ』?なぁにそれ?」
「おーやおや、本当に知らないのか?まぁ、ねんねさんの珠子らしいか。『エス』、シスタア…って、聞いたことないか?」
「エス…?」
そう、言われれば。

同じクラスのお友達が、そんなお話をしていた気がする。お手紙やお花のやりとりをして、とても仲良くすることらしい…位しか、又聞きで知っているだけではあるが。

「マァ、そんなもんだな。珠子はその程度知ってりゃあ、十分だろうよ」
「えっ、間違ってるの?」
「そうじゃないさ。ただ、あまり知りすぎてしまうと、良くないこともある…とだけ、教えておこうかな。たけなんかに聞いちゃダメだぜ。真っ赤になって怒られるぞ?」
「…ええ、わかったわ」
「さ、そんな裁縫、さっさとカタを付けちまいな」
「そうしますわ。ありがとうございます、お兄様」
気を取り直して針を持つ珠子に、お兄様はニッコリとして襖を閉めてくださった。

(エス、って…。どんな、ものなのかしら)
姉妹のない珠子にとって、ほんのりと興味がわいてきた。
実は、つい先ほど、放課後の物陰で、珠子に向けてその出来事がまさに始まっていたとは、露ほども知らずに。

2011年1月13日木曜日

双子ぢゃなくってよ。(其の弐)

「お母様ァ…、お願い、助けて頂戴。また今日も、お裁縫のお持ち帰りなの!」
家へ帰り着くなり、珠子さんは広い上がり框(かまち)に風呂敷包みを投げ出すと、甘え声でおねだり。
「まあまあ、お嬢様ったら。まずは奥様へのご挨拶が一番でございましょうに」
「だってェ、たけは頼んでも助けてくれないじゃないの」

侍女とはいえ、たけはまだ40歳手前。珠子さんのお母様より年回りが近い分、手厳しい。
それは、珠子さんも十分心得たもので、もう女学校に上がってからは、たけに頼み事をあまりしなくなった。

「ホホ…お帰りなさい、珠子さん。幾度も幾度も、お持ち帰りでお大変ね?」
奥の西洋間から、紬(つむぎ)姿で現れたお母様のお口振りでは、どうやら助け船は出ないご様子。
「さ、まずはお八つをおあがりなさいな。少しお休みになって、それからお持ち帰りを始めなさい、ね?」
「…ハァイ」
甘えん坊が効かなくて、仕方がないと珠子さんは観念し、ゆるゆると編み上げ靴を脱ぐと廊下へ上がった。

2011年1月10日月曜日

双子ぢゃなくってよ。(其の壱)

「はあ…」
学用品を扇面柄の縮緬風呂敷に包みながら、思わずため息が口をついて出た。
「お嬢様、おはしたのうございますよ」と目を光らせる、侍女のたけも、幸いまだ迎えには来ていない。

口頭試問を受けて、この私立ありす女学校に入学してから1ヶ月。
両親と訪れた時、校庭を埋め尽くすかのように咲いていた桜も、もう緑の新芽が初夏の訪れを伝えている。

私立の学校ならではの、おっとりとした雰囲気が全体に漂う。
お弁当を開く仲間、授業中にひそひそ噂話をする仲間が、この一月で幾人(いくたり)もできた。

「…でも」
ため息のしばらく後、級友が皆去っていった、飴色に輝く夕空の光差し込む教室で、
「こんなに、お裁縫の授業が多いなんて、わたし、聞いてなかったわ…」
独りごちて、ふう、とまたため息。

その姿は、まだあどけないおかっぱ髪に、肩揚げをした銘仙の着物と、制服の紫紺の袴。
花冷えが残る朝晩をたけが案じてか、葡萄茶の羽織も重ねている。
この、憂いをまとうには幼い身なりの一年生が、主人公の一人、御堂珠子(みどう・たまこ)さんである。

そんな珠子さんのがんぜない姿を、教室そばの階段の蔭から、一人のほっそりした上級生が覗いていた。
珊瑚を刻んだような麗しい手の指には、一輪の花と、朱色の封筒がほの見える。

2011年1月3日月曜日

双子ぢゃなくってよ。(予告編)

絹江(きぬえ)さんと珠子(たまこ)さんは、同じ私立女学校の先輩と後輩。

この学校の伝統ゆかしく、エス=シスタアのおん契りを交わした二人。
手紙を草履箱にやりとりしたり、花を一輪、木の机の蓋を開けて忍ばせたり…。
お嬢様の二人は、それぞれ家に出入りの呉服屋の反物からお母様にねだって、
おそろいの銘仙に濃い紫の袴で登校いたしたりもなさいます。

これほどまでに仲良しさんですから、やっかむ者、有ること無いこと言いふらす者、
風紀を乱すような悪さをしないか、目を光らせる者、隙あらば…とねらう者。

さてさて、エスの二人にどんな出来事が降りかかって参りますやら?
次回をどうかお楽しみに。
(このブログの壁紙が変わっていましたら、このお話の第一話、始まりましてよ)

いちごボーイ(8)

「素敵!すっごい、似合うわ。いちごちゃんに…ああ、そのせいで4月から少しずつ、髪を伸ばしてたのね? ダンサーさんらしくなるために」
「そうなの。これじゃ、カルメンよりもドン=ホセかエスカミーリョか、って短さだものね。…って、え?」

今度は、いちごちゃんが、私に負けないくらい、ううん、もう負けてるけど、星の入りそうな大きな瞳を私に向けて、驚いた顔つき。
「金沢さん…、私のこと、4月から知ってて、見てて…くれたの?」

コクン。

もう、何を隠してもしかたない気が、私はしてきた。
「入学式の直後よ。…あまりにも可愛くて綺麗で、目に焼き付いて、離れなかった。だからね、きっと、スペインへ行っても、どこの国へ行っても、貴女はきっと、たくさんの人に恋をされるわ」
「…金沢さんも、恋してくれた…?」
いつものいちごちゃんらしくない、ちょっと、不安そうな声。
「…ばか」
さすがに恥ずかしくなって、私は真っ赤に頬を染めて、椅子の上でくるん、と90度回転。いちごちゃんに背を向けた。

「ね、教えて?…私、一番心配なんだもの。一年の間、離れていて、日本に帰ってきたら、金沢さんが誰かと…男の子と、女の子とでもね、恋人同士になってたら、って…」
いちごちゃんの唇から、そんな言葉が出てくるなんて!
嘘っ。

「そんなこと、ないっ!」
気づいたら、私は叫びながら、またくるっと90度回転。
そうしたら、いちごちゃんまでこちらに回転していて、座りながら向き合う形になってしまっていて、ちょっととまどったけど、でも、言わないと。
「なんで、そんな取り越し苦労みたいな事、言うの? 私のこと、バカにしてるみたい! 私、誰かから好かれるような魅力なんてないし、それに、それに、私、私の方が先に、いちごちゃんの事…」
「事…?」
悪戯っぽく、でもちょっと安心したように、いちごちゃんは首をちょっとかしげて、私を見つめる。

ああ、もう、なんて!
でも、仕方ない。
誤解されたくないし、それに、こんなに魅力的なんだもん、いかにもラテンの血に反応する人っぽい。
そんな彼女に恋してしまった私も、一蓮托生ってわけだわ、んもう。

地学準備室の入り口ドアには、茶色く日に灼けた鉱物の一覧写真が貼ってあり、外からは見えない。
座ったまま、私は柳の枝みたいにたおやかないちごちゃんの背中を抱き寄せて、一瞬だけキスをした。
すぐに、いちごちゃんも私の背に手を回して、甘い苺の香りを唇に乗せて、お返ししてくる。
ほんとうに、数秒もたたないキスだけれど、それだけで、お互いにわかってしまった。
『これは、一年後、変わらずまた逢うための約束よ』…って。

結局、二人ともお弁当は食べはぐって、重たいバッグのまま、駅へ帰った(お母さん達、ごめんなさい)

「一年経ったら、私、18歳で帰国するんだわね。4月産まれだから。『18歳未満、お断り』の所へも、お出入り自由よ。そしたら、金沢さんをつれて、あっちこっちcita(シータ。スペイン語でデートのこと)へ行っちゃおう。うふふ」
「なぁに、どこ? 18歳未満じゃ行けない所って…」
ほくそえむいちごちゃんに、真顔で私が聞くと
「知りたい? 金沢さんのそういう所、私、可愛くて大好き!」

周りに誰もいないとはいえ、通学路の真ん中でそんな大胆な事を言ういちごちゃんは初めてで、お昼のキスで、私が変えちゃったような気がして、
「知りたくなんか、あ・り・ま・せ・ん!」
あわてたら、私までつい、大声になってしまった。

いやだ、私ったらバカっ。
でも、いちごちゃんが、心から楽しそうに笑って聞いてくれたので、ま、勘弁しとこうか。
本当の素敵な答えは一年後、ってことで、ね。
                             ~いちごボーイ・fin~

いちごボーイ(7)

梅雨らしい校庭の景色を横目に、皆で三々五々集まって、お弁当の包みを広げていた時。

「ちょっと、聞いた!? 山階(やましな)さん、二学期から留学しちゃうんだって!!」

「えーっ!」「嘘でしょ?」「やだーっ!」
陳腐な驚きの台詞を口々に叫ぶクラスメイトの中、素知らぬふりをしながら、きっと、一番驚いていたのは私だったろう。

山階さん、というのは、いちごちゃんの名字。
あと一ヶ月足らずで会えなくなる…というショックが、一つ。
それから、もっと大きなショックは、その事実が私に伝えられていなかった…本人から…と、いうこと。

 (思っていたより、親しくなんか、なかったのかな…私と、いちごちゃん)
そう思うと、目の前のランチョンマットがじわり、とにじんで、赤いギンガムチェックがゆがんだ。
唇を咬んで、こらえようとしても、睫毛を伝うように、ポロポロと涙がひとりでにこぼれて、止まらない。

「え…金沢さん…?」
近い席の誰かの声が聞こえたとき、廊下からいちごちゃんがつかつかと教室に入り、ダンスの時みたいに、私の手を繋いで、連れ出してくれた。
ううん、あの時と違ったのは、衆人環視のもと、私たち二人が堂々とクラスを抜け出した事だった。

今日は、地学準備室。ドアを後ろ手にパタンとしめて、鍵をかけるいちごちゃんの姿は前と同じ。
でも、目の前のいちごちゃんは、留学しちゃうって話で、私はべそかきが収まらなくて。
「聞いちゃった…?」
ちょっと申し訳なさそうな、いちごちゃんの声。
コクン、とかぶりをふるので、私は精一杯。
「…ごめんなさい。…本当は、私の口から金沢さんへ、一番に言わなきゃ…って、そう、思ってた。スペインへ一年間行く話が決まってから、ずっと。心の隅にいつもしまってあったの」
「スペイン? 一年間?!」
「…ええ。あ、聞いてなかった…?」
タヌキみたいに泣きはらした目を、思わず見開いて、もう一度私はコクン。

「ああ、じゃあ、少しは良かったわ。今さっき、職員室へ最終決定の報告に行ったとき、誰か物見高くて信憑性の低いお話好きさんが、覗きにきてたみたいで。でも、金沢さんには、私からちゃんと話せるのね!…よかった」
二人して、古びた背もたれのない木の椅子に並んで座り、話は続く。

「ね…山階さ、いえ、いちごちゃん。どうして、スペインなの?」
思い切って私が、聞きたくてたまらないことをぶつけると、いちごちゃんは私を覗き込むように微笑んで
「うん。わたしね、半年前に目覚めちゃったの。本牧の、叔母のバールで」
「???」
「ここへ推薦合格が決まってから入学までの間、ちょっと家ぐるみで内緒の工作を中学にしてね、横浜の本牧で叔母がきりもりしてるスペイン料理店で、バイトしてたの」
「中学で?!」
「もちろん、年バレしないように、お化粧して、カウンターから外へは出ないように用心してね」

その、いかにもいちごちゃんらしい、悪戯っぽい体験談に、私はすっかり引き込まれた。
「そしたらね、出会っちゃったのよ!…何だと思う?」
私には、ダンスをするいちごちゃんが、すぐに浮かんだ。学校の授業や素質だけではない、美しい原石が磨かれつつ、もうすぐ宝石に形を変えようとするような…
「フラメンコ?」

『Claro!(クラーロ!=スペイン語で「もちろん!」の意)』
にっこり笑うと、いちごちゃんはやおら立ち上がり、制服のボックスプリーツをひょいっとたくし上げると、上履きがハイヒールに変わったかのように、情熱的に踊って見せてくれた。
この間のクールな「剣の舞」とは違う、いちごちゃん曰く『conmovedor(情熱的)』って言われたい、という華やかで熱い、踊りだった。

2011年1月2日日曜日

いちごボーイ(6)

ダンス授業後の一件の後も、特に私といちごちゃんの間柄は、変わらなかった。
…そう、クラス内、校内では。
「おとりまき」が嫉妬丸出しで変な気を起こしては困ると、いちごちゃんが気を遣っていてくれたおかげらしい。

ちょっと変化があったのは、電車通学の行き帰り。
私の姿を認めると、さりげなく近づいてきてくれては、他愛ないおしゃべりをしてくれるようになった。

それが嬉しくて、でも、彼女みたいに器用にはできなくて、私も、英単語や古文の小冊子を手に、いちごちゃんの方へそうっと寄っては、語句の意味を聞く振りをして、話を少しずつするようになった。

「私ね、変わりたいのよ。どうってまだ分からないんだけど、とにかく、今の自分に安穏としているのが嫌」
完璧にしか見えないような居ずまいで、いちごちゃんはつかえを一気にはき出すようにしゃべる。

「…じゃあ、私と入れ替わって…? 勿体ないわ、そんなに綺麗だし頭もいいし、それに…」
言ってから、それは不可能だと改めて思い知らされて、自分で落ち込む私に
「いいわよ。私、金沢さんになら、入れ替わってもいい。落ち着いていて、まじめで、他人にぶれなくて」
「そんな、…買いかぶり過ぎよ、私なんか…」
「そうかな? 少なくとも私は、本心でそう思ってるんだけど」

いつの間にか、季節は青葉と五月雨の頃に移っていた。
先だって返された中間考査では、体育(ダンス)で私にとって小学校以来最高の点がついていて、驚いた。
そして、制服は冬から夏への移行期間。
セーラーから胸当てがなくなり、薄く薄く浅葱色が入った服地に、濃紺の取り外し自由な水兵襟には、このあたりの学生や地域の方々に憧れのまとの、純白のラインが二本。たっぷり布地をとったスカーフは学年別に色分けされ、私といちごちゃんは、一年生の白だった。
夏服も、いちごちゃんのためにデザインされたかのような、清潔で爽やかな色合い。
隠れたおしゃれなのか、標準服のストレートなブラウスのラインよりも、ちょっとダーツを両脇にとって絞り、ただでさえ華奢なウエストラインが、この上なく優美に見える。

「こんなにセーラー服の似合う素敵なひとが、男子扱いされてたなんで…信じられない」
「え? …ありがとう。金沢さん、独り言だったんじゃない? 今の。…でも、嬉しいな」
昇降ドアの長いスチール棒につかまりながら、私の真っ赤な顔をのぞき込んで、いちごちゃんは、バカにしないでにっこり、微笑んでくれた。

…そして、一番変化が大きくて困ってしまったのは、私の心の中の嵐だった。
あの、社会科資料室の一件から、私のいちごちゃんへの思いは、どんどん邪に傾いている。

一瞬の、抱きつかれたときの香り。押しつけられた(故意でじゃないだろうけど)胸の柔らかさ…スリムだと思っていたのに、予想以上のボリュームと形の良さが、私の頭からはなれなくなってしまった。

私は…痩せてるとはとても言えないけど、でも太ってるわけでもないので、胸はいちごちゃんより、サイズ的にはあると、思う。でも、あんなにつんと引き締まって、でも押し返してくるような弾力があって…
『大きければいい、ってもんでも、ないのよねぇ』
お風呂場で、着替えで、一人の寝室で、そんなことばかり考えるようになってしまった。
『ブラで、横を寄せるやつ、買おうかなぁ…』
ふっと口にだしてから、はっと自分のエロ思考に気づき、ぶるぶると首を横に振りまくる。

あー、そして、エロ思考と言えば。
毎晩、いちごちゃんのことを考えないと、私、眠れなくなってしまった。

頭の中で、社会科資料室の事をトレスする。
だけならばともかく、週末で宿題や復習に余裕がある時は、その後を勝手に想像するようになってしまった。
つないだ手と手が、やがて指を絡め合い、腕がゆっくりと上げられ、互いの指に口づける…。
つややかな髪をなで、かぐわしい香りをだきしめるようにかぎ、漆黒のショートヘアにも口づけて…。

そんなこと、実際は度胸がなくってできないのにーっ!
でも、一人きりの妄想の中では、できてしまう。不思議。
…そ、…それで、森鴎外の「雁」を前に読んだ時、中学の保健体育で男子がするようなこと、女の子もそんな昔から、お布団の中で一人でしちゃうんだー…! って、びっくりしたんだけど(罪な本だと思う)

私、誓って言いますけど、いちごちゃんにだけ、初めてそんなエロい感情を抱いたんだけど、でも、してません!!
…だって、私一人の妄想の中でさえ、いちごちゃんを汚したくない、んだもの。
(この誓いがいつまで守れるか、本当の本当はちょっとだけ揺らいでるけど、私、頑張る!まだ高1だし)

こんなバカっぽい事を一人で私がうだうだ考えてる間に、実はいちごちゃんは、もっともっと大きなすごい事を考えていた。
それがクラス中にわかったのは、みんなの夏服がやっと板に付いてきた、7月の始めの事だった。