2012年8月9日木曜日

はぢめてのおつかい(1)

今日も、朱宮(あけのみや)家のお転婆な14歳、鹿乃子さんはおでかけ。
お付き運転手の片桐は、なぜだか緊張気味に車を運転している。

それも、そのはず。
鹿乃子さんの今日のおつかい先は、こともあろうに近衛師団の司令部庁舎であるからだ。
もちろん、こんなものものしい所へ足を踏み入れるのは、二人とも、初めて。
鹿乃子さんの膝には、藤色にねじり梅の模様が散らされた風呂敷が、四角い形でちょこんと鎮座ましましている。

ことの起こりは、今朝のお父上へのご挨拶の時だった。
朱宮家は和洋折衷式の暮らしのため、子供は普段用の着物に着替えてから両親の部屋へ挨拶に回り、朝食はその後、別にとる。
両親は昨日のうちに母親がメニューを渡した和食を、鹿乃子はコックが成長に必要な栄養を考えて、調えてくれる洋食を。
いつもと同じように、鹿乃子が
「お父さま、ごきげんよう」
と、重々しいドアをノックすると、
「ああ、丁度よい所に来た。鹿乃子、お前にしかできない頼み事があるのだが、受けてくれるか?」

こんな風に言われたら、どうして断れようか。
鹿乃子のお転婆好奇心は、むずむずする。

「実はな、今日のうちに司令部へ行って、副参謀長…まあ、蒼宮(あおいのみや)家の当主、お前にとっては叔父に当たる…に、書類を届けてほしいのだ。本来ならば私が行くべきなのだが、あいにく某宮様の御殿にて、各国大使を招いた小宴が催されることになっていてな。私も任務でそこへ付かなければならなくなった。…他の下士官に頼もうかとも思ったのだが、かえって目立つような気もしてな。まさか、女学校に入ったばかりのお前が、そんな書類を抱え込んでいるとは誰も思わないだろう、そう考えたのだが…どうだ?」

鹿乃子は、冒険心ではちきれそうな心を辛うじて静めながら、即答した。
「ぜひ、そのお手伝い、させていただきとうございます。お父さまのご期待にそえるように!」

「きっと、そう言うと思っていたよ。お前は、新しくてちょっと危険なことがすこぶる大好物な、真のお転婆だからな。ああ、春野は今日は連れていかないように。あれは、軍の外の者だから」
わが意を得たりと、朱宮家の当主でもあり、参謀長でもある父は、ニヤリと笑った。

その日は、女学園を『家庭の都合』と申し出て早退し、午前中のうちに鹿乃子は帰った。
さっそく、鹿乃子付きの侍女が二人で、海老茶袴に藤色の銘仙から、外出着へと着替えさせていく。
今日の装いは、白地に鶯茶と薄桃色の立涌模様が縦に幾筋も走った、爽やかで可愛らしい袷。
帯は濃い桃の地に百合を大きく刺繍した名古屋帯で、ちょっとくだけて見せる。半襟と帯締めは逆に薄い鴇色にして、帯留めの小さなエメラルドで百合の葉と色を合わせ、格を上げた。

「肩揚げがねえ…早く取れたらいいのに」
鹿乃子が、姿見を見てつぶやくと、
「まあ、女学校をご卒業なさった御令嬢でも、まだ肩揚げをなさってらっしゃる方はいましてよ。いま少し、我慢なさいませ」
おませな御令嬢に、くすくすと小さく笑いながら、侍女達は答えた。

黒い屋根に、白と煉瓦色の建物は、いかめしいというよりも美しさが勝る。
車寄せで片桐は鹿乃子を下ろすように言われ、控えの場所へ車を動かしていった。
(さあ、御用向きを果たさなくっちゃ!)
案内役の下士官の軍帽には緋色のテープが鮮やかに巻かれ、確かにここは近衛師団なんだわ、と鹿乃子はわくわくした。

「こちらが、副参謀長の執務室でございます」
長い廊下を何度曲がったろう、下士官の青年が、マホガニー色の厚い扉を掌で示した。
「有難う。お取り次ぎを願えます?」
見た目に対して、あまりにも鹿乃子が平常心なのに内心驚きつつ、青年は扉を叩いた。

「参謀長からの、お届け物であります」

「ああ、どうぞ」

下士官は、扉を音もなく閉めると、去っていった。

大きな木製の執務机の向こうには、「お集まり」で鹿乃子によくお声を掛けて下さる、蒼宮の叔父様が座っていらした。

「やあやあ、大したものだ。大の男でも入るのをためらう司令部へ、よくおいでになった。…早速で悪いが、仕事でな。預かり物を確認させてもらうよ」
「はい。ここに」
風呂敷をするするとほどき、中の茶封筒ごと、副参謀長の手へ鹿乃子自ら手渡す。
封筒を開き、中の書類を吟味していらっしゃる叔父様は、いつもと違って険しいお顔つき。
(さすが、将校さまだわ…ああ、男の方って、やっぱりいいなぁ…わたしも、こういうの、やってみたい)
勧められた革のソファに座りながら、鹿乃子はそんなことをぼんやり考えていた。

「うむ。たしかに。朱宮参謀長からの書類に間違いない。確かに受け取ったよ、鹿乃子姫。いまさっそく、受取状をお父上宛に書くから、もう少し待っていてくれるかね」
「はい、承りました」

そこへ、さっきとは違う下士官が入ってきて、鹿乃子にお茶を出してくれた。
「まあっ、私なぞにとんでもない! お気遣い、恐れ入ります…」
「いえ、参謀長の御令嬢とうかがいました…しかし、なんとお若い…」
お互いに驚き合って、そのあと、ちょっと微笑み合った。

「木下中尉、婦女子にうつつをぬかしておる暇があったら、鍛錬をせい、鍛錬を!」
「は、はっ。失礼いたしましたっ!」
あわてて部屋を飛び出る木下と呼ばれた兵に、鹿乃子は
「ごめんなさい、私の方が余計な口を聞いてしまって…」
と、声を掛けた。

「よいのだよ、鹿乃子姫。それが軍隊というものなのだ、しかもここは近衛師団。全国の精鋭が集まる場所、いくら厳しくしてもしたりないくらいなのだから。さあ、これが受取状だ。参謀長に、よろしく伝えてくれ」
言いながら、叔父は白く細い封筒を渡してくれた。
「ありがとうございます。確かに、父上に手渡しいたします」

「さて、これでご用は終わり…と言いたいところだが?」
「は?」
眼を丸くする鹿乃子の前に、蒼宮の叔父はニヤニヤ笑った。

「お前さんの並外れたお転婆ぶりと肝っ玉の据わり具合は、近衛師団(ガーズ)で知らぬ者などおらぬぞ。参謀の用向きが済むまでは我慢しておったろうが、帰り道ともなれば、四神家随一の跳ねっ返りをきゅうと言わせて、話の種にしようとうずうずしておる若いのがあまたいるだろうて。車寄せまでの帰り道、気を抜かぬがよろしいぞ?」

「えっ、じゃ、案内の方は…」
「無論、つかぬよ。帰り道がわからなくなったら、その辺の若いのをひねり上げて聞くんだね?」
「もう! 叔父様ったら、意地悪ですこと!…でも、書類をお受け取りいただいたのは別です。父上に代わりまして、お礼申し上げます。ごきげんよろしゅう」
立ち上がると、小さな封筒と畳んだ風呂敷を左右の袂に入れ、鹿乃子は深々とお辞儀をした。
(つづく~)