2012年8月11日土曜日

はぢめてのおつかい(2)

副参謀長である、蒼宮の叔父様の部屋を出て、鹿乃子は迷路のような絨毯敷きの廊下を、畳表に太めの鼻緒をすげた草履で、きょろきょろと歩いている。
「まさか、送って下さる方がいらっしゃらないとは、考えなかったわ…。おかげで、どのお部屋の角を曲がったかも、覚えてやしないのですもの」
小声で文句を言いながら、それでもおぼろげな記憶を確かに、歩いていくしかない。

そんな鹿乃子の様子を、同じ階の中庭を挟んで向かいの廊下から、数人の下士官が面白そうに眺めている。
無論、その中には白宮家の「和也お兄様」も含まれていた。

「女学生いじめは、歓迎しないね。帝国軍人たる者、レディーファーストを心得るべきじゃないか?」
一人が言うと、
「お前は、あの姫の凄さを知らないから、そんな事を言うのだろう。朱雀家の跡取りが令嬢でも筆頭を保っているのは、彼女が並外れた腕っ節と乗馬の腕前を持っているからだと聞いたぞ。なあ、白宮大尉?」
和也は、あえて沈黙を守り、薄く笑いを浮かべて、てくてく進んでいる鹿乃子を見ている。

突然。
鹿乃子の行く手に、三人の尉官が現れた。
「恐れながら、お伺いいたします。御令嬢は、朱宮(あけのみや)鹿乃子姫でいらっしゃいますか?」
鹿乃子は、動じることなく
「ええ、いかにも」
と答える。

するといきなり、一人目の兵が
「御免!」
と叫んだと同時に、鹿乃子の右耳すれすれに向かって、右手で固めた拳を真っ直線に伸ばし、殴りかかってきた。
鹿乃子は、相手の拳が自分の顔ぎりぎりまで近づくのを見極めた後、自らの右の掌で、拳をくるむようにふわりと受け止めた。
一人目の兵は、勢い余ってよろけてしまう。そこへ鹿乃子は相手の手首を掴み、関節を逆方向にひねり上げて、背後で仰向けになった兵を固めてしまった。

見物人の兵から、口笛が上がる。

二人目の兵は、仰向けになり、獣のようにのしかかってきた。
その動きを見て、鹿乃子は一人目の固め技をゆるめないまま、体を小さく丸める。
二人目も、勢い余ってよろけてしまい、自分から鹿乃子を飛び越し一回転して倒れ込み、後頭部をしたたか打った。

「…尉官の階級では、歯が立たないかも知れないな。俺だって、幼なじみだから手心を加えてくるかもしれないが、怪しいもんだ」
口を開いた和也の言葉に、見物人は一斉にどよめいた。

その間にも、三人目の兵がかかってくる。
今度は、竹光とはいえ、短刀を持って立ち向かってきた。
「武具相手か…どうする?」
鹿乃子は、相手の兵をじっと見ながら、素早く立ち上がった。
聞き手の右を狙おうと、相手は向かって左へ降りかかってくる様子だ。
それを見抜くと、打たれる直前で鹿乃子は自らの体も左へと斜めによけ、向かってくる敵をかわす。
そして、さっと振り向くと、よろけながら再び近づいてくる相手の竹光をよけ、右掌で兵のあご下をぐっと押し上げ、一瞬のうちに倒してしまった。

「…むう…、お見事!」
「話には聞いていたが、女学生になったばかりのお嬢様が、袴も襷もつけずに近衛兵を三人、のしちまうとはなあ…」
口々に感想を言い合う下士官達の中で、和也は一人、くすくすと笑い続けていた。

「四神家のよしみで、白宮大尉。あの少女武道家を玄関まで送ってやってくれないか?」
「…承知いたしました。では、これより行って参ります」

その頃、鹿乃子は自分の倍もありそうな兵を三人、立たせる手伝いをしていた。
「…痛く、ないわよね? これは、戦うための武道ではありませんから」
「ええ、不思議と…」
「ですわよね、皆様受け身が大変お上手でらしたし、こちらへいらしてるんですもの、武道は腕に覚えがおありなんでしょう?」
「ええ、まあ…三人とも、いくつかの武道で段を頂いております。…しかし、あの…ご質問させていただいて、よろしくありますか?」
「ええ、何なりと」
「朱宮さまのお使いになった、ただいまの武道は、何というものでありますか?」
そう尋ねられて、鹿乃子はしばらくうーんと首を傾げてから、
「…実はね、まだ名前がないのですって。正式な武道ではないらしくて。私も、父上からここ数年習い始めたばかりで、まだまだ修行が足りないんですの。ですけれど、まさしく『柔よく剛を制す』を体現している、不可思議な新しい武道でございますわ。……あっ、いけない!」

急にあわてふためく鹿乃子に、
「いかが、いたしたでありますか?!」
と、美丈夫の近衛兵三人が、たちまち家臣のように気色ばむ。
「どうしましょう、袂に入れてあった父上への受取状、無事だったかしら? 風呂敷も…」
そう叫ぶとすぐに、殿方の前でもお構いなく、ぱっぱっと、鹿乃子は袂の中を確かめた。
「…ああ、大丈夫だわ。皺もついていないし、なにより、なくさなくて良かった…」
ほっとする、小さなお使者に
「おさすがであります!」
すっかりやられた三人の下士官は、兵帽を取って、深々とお辞儀をした。

「よっ、子鹿。よくまあこんな所で会うとは、奇遇も奇遇」
三人の兵の背後から、和也お兄様が歩いてきた。
その声を聞いて、三人は一段と姿勢を正し、直立不動のままになっている。
三人は、大尉より階級が下なのだと、鹿乃子にもそれで知れた。

「向こうの窓から、何人かで拝見させてもらったぜ。相変わらずのお手並み、ってとこか」
「ご覧になってたんですの? …まあ…意地悪」
「大評判だったよ。ちびが尉官を三人も、矢継ぎ早にのしちまったんだからな。しかも、着物の乱れもなくね」
「まあっ。そんな所まで、見てらしたんですか?お人が悪うございます、和也お兄様ったら」
その時、鹿乃子の頭に、あるいい考えが浮かんだ。

「ではお兄様、せっかく鹿乃子の腕前をご覧頂いたのですから、その代わりに、このわけのわからない司令部の抜け道をお教えくださいな。片桐が、きっと欠伸をしております」

その可愛いおねだりに、もともと自分もそのつもりでここへやって来たことは、あえて言わないことにして、
「はいはい、分かったよ。無事に朱宮家のお車まで送り届けさせていただきます」
そう言うと、また和也はくすくすと笑った。

「どうして、お笑い遊ばすのですか?」
「いやあ、この話で、近衛師団(ガーズ)の皆がどれだけ楽しめるか、それを考えるとたのしくてな」
鹿乃子の問いに、愛らしさとあどけなさを感じながら、和也が答えると
「いーだ。お兄様なんか、大嫌い!!…あ、でも、今日だけですけど…」
と、さっきの勇ましさとはほど遠い返事を返して、これまた、可愛ゆい子鹿の風情だった。

(おわり)

*次の更新は、おそらくお盆明けになります~。(早くて8/16くらい?)