「…ど…どうして…」
普段に似合わず、動転した鹿乃子が訊ねると
「分からない?」
と、和也お兄様は卓に頬杖をつき、優しくお訊ね返しになる。
「あ…あの、…ガーズのお部屋で、…私が、お兄様の、ことを、お話申し上げたから…」
こわごわ答えてみると、
「うん。その通り。…でもね」
と、ここでちょっとお兄様は、真剣なお顔をなさった。
「……?」
「ちょっと俺としては、気になる点が、二つばかりあるんだな、うん」
(いやだ、やっぱり和也お兄様、怒ってらっしゃる!どうしよう…)
正座のまま、襖の前の板敷きで身を固くして座っている、鹿乃子。
それに改めて気づいたように、和也お兄様は
「その二つの話は、子鹿が部屋に入ってからにしよう。入って、襖を閉めて」
と、やや命令口調でおっしゃった。
無論、逆らう気など毛頭無く、言われたとおりに、鹿乃子は動く。
「もう少し、こちらに寄って。そう、その座布団を当てる」
お兄様との距離が縮まるのを怖く思いながら、鹿乃子は、言うとおりにまた動く。
「人に聞かれては、まずい話だからな。だから、こうして俺の離れに呼んだんだ」
(わあん、お、怒られるー!)
鹿乃子が恐怖で目をつぶっていると、和也お兄様の声は、また、優しく戻った。
「まず一つは、子鹿が俺を慕っているって、直接お前から聞きたかったって事」
(え……?)
こわごわ目をあけてお兄様を見ると、ほんのりと、頬をそめていらした。
こんなお顔を拝見するのは、初めて。
ということは、鹿乃子自身も、いま頬を真っ赤にしているに違いない。
「そしてもう一つは、俺の方から先に、お前を好いているって、言いたかった事」
「えええええーー!!」
鹿乃子は、もう我慢できずに、声に出して叫んでいた。
「でもまあ、婦女子の方から先に求愛してもらうってのも、思ってたより悪くないな。周りの若い奴らも、しきりにうらやましがってたぜ」
「いやいや、いやです。恥ずかしい……もう、いや!」
顔を洗うときのように、両手で顔を隠して恥ずかしがる鹿乃子。
その両手首をそっと持って、ゆっくり外していきながら、和也お兄様は微笑む。
「本当に、嬉しかったんだぜ。…子鹿」
「…お嫌いに、ならない?…お兄様」
「誰を?」
「…私を」
「何でまた?」
「…だって、…こんな大切なことを、お兄様に申し上げる前に、ガーズの方々の前で叫んでしまって、…女だてらに、はしたないし…失礼だし…」
鹿乃子が言い終わるか終わらないかのうちに、和也お兄様は、プーッと吹き出した。
「ど、どうして吹き出されるんですか!」
思わず、鹿乃子が声を荒げると
「ほらほら、そういう所さ。次の間には侍女達がいるんだし、声を小さくしとけよ。言いたいことを言う、ちっともはしたなくなんかないさ。うじうじしてるより、俺はずっとつきあいやすいと思うけど。それに、そういう真っ直ぐな所が、朱宮 鹿乃子さんの一番の魅力なんだから。それを悪く言っちゃあ、いけない。俺も、お前のそういう所と、さっき見せたみたいに恥ずかしがり屋だったり、意外と泣きべそさんだったりと、両方が好きなんだからな」
「……そんな、やっぱり……恥ずかしい、です……」
「こんな事言う俺は、軟派で嫌いか?」
「いいえ!全然!だって…だって私、ずっと…」
「ずっと、何?」
お兄様の声はもう、とろけるように甘くて、まだ十四になったばかりの鹿乃子には、聞いているだけでもくらくらしてしまう。
それでも、ちゃんと自分で言わなくちゃ、と気持ちをふりしぼって、でも小声で
「ずっと…ずっと、和也お兄様だけ見てて…お兄様のことが、好きでした…」
と、がんばって、告げることができた。
「可愛いな、子鹿。俺からも、改めて言わせてくれ。俺も、お前がとても好きだよ」
和也の和室は、火鉢を十個も置いたみたいに、熱くてしかたがない。
「お前が、あんまり可愛いから、お前が十六になって婚約(エンゲージ)するまで、我慢しようと思っていたことがいくつもあったのだけど、二つだけ、破っていい?」
「えっ」
「一つは、二人きりでいるとき、互いの呼び方を変えよう。俺は…鹿乃子、でいいか?」
嬉しくて、鹿乃子は目眩にも似た感覚に酔いながら
「…はい」
と、素直に答える。
「俺の事は、なんて呼んでくれる?もう『お兄様』扱いじゃ駄目だぜ」
「では……和也さま、と……」
「…悪くないね。それじゃ、もう一つの方なんだけど…もっと、こっそり話したいんで、もう少し俺の方へ寄ってくれないか」
「このくらい、でしょうか?」
「えーと、もう少し。内緒話ができるくらい…」
言われた通りに鹿乃子が顔を寄せた途端、和也の顔がパッと近づいて、唇と唇が微かに触れて、そして離れた。
「……!」
急に大人の行為に及ばれてしまった鹿乃子は、声を上げることすらできない。
対照的に、少々物足りなさを感じながらも、十四歳のファーストを頂戴して満足している和也の方は、余裕の笑みで鷹揚に構えながら、そんな鹿乃子の狼狽ぶりを可愛くて仕方ないといった風情で、鑑賞している。
「あと二年、鹿乃子が十六になってエンゲージが済んだら、こんなもんじゃないからな。覚悟しとけよ?」
と、和也が構うと
「…ええと、『こんなもんじゃない』と申しますと…どんなもんなのでしょう…?」
鹿乃子が首をかしげながら、でも真剣に聞いてくる、その一途さもまた可愛らしい。
「弱ったな。……俺、だんだん我慢が効かなくなってきちまいそうだぞ。…んーまあ、お前んとこの春野には絶対相談できない分野だしなあ…。そうだな、とりあえず、分からない事は何でも俺に聞いてみてくれ。俺も、実はよくわからない所があったりするんだが…まあ、男同士の友人の方がそういう面はいろいろ教えてくれそうだしな。いいか?他の奴には絶対聞くんじゃないぞ、鹿乃子。天子様にかけて、俺は絶対お前を悪いようにはしないから。わかったか?」
とまあ、少々怪しげな和也の答えにも、
「はい!存じました。その…和也、さま」
と、健気にはにかみながら答える鹿乃子であった。
初めて「和也さま」と呼ばれて、心臓を打ち抜かれそうな彼女の可愛いさに内心ドキッとしている、和也の様子には気づかぬままに。
(おわり…とりあえずは)