あれは、今から10年くらい前の話だろうか。
もう、どこの家で行われた時だか、和也は忘れてしまったが
『お集まり』の席の途中で、四神会の筆頭である叔父様方の部屋に呼ばれたのだった。
「ほう、和也も襟に金星がつくようになったか。いつ陸軍幼年学校に入った?」
「今年からであります」
「ふむ、では十四か。二年間、せいぜい励むと良い」
「ありがたく存じます」
先日受けた口頭試問と大して変わらない…と、和也が心の中でため息をつこうとすると、
「ときに、和也。お前の将来について、この四人で話していたのだがな」
「はっ?」
「念のため訊いておくが、お前の代で、四神家に男子のいない系統はあるかな?」
和也は、黙って考える。
自分の実家である白宮家は、自分の上に三人も兄がいる。
玄宮家と蒼宮家は、まだ襁褓(むつき)も取れないながら、跡取り息子がいる。
と、なると…
「朱宮の伯父様のお宅、ですか!」
つい、声に出して手をぽん、と叩いてしまった。
「意外そうだな?」
「はい。あまりにじゃじゃ馬姫なので、御令嬢という気がいたしておらず…」
その率直な和也の返事に、その場の皆が大笑いしてしまった。
「す、すみません!朱宮の伯父様、鹿乃子姫のことを、つい…」
「いや、その通りだよ。窓の外を見るがいい」
和也が、促されるままに外を見ると、同い年の姫が二人、追いかけっこをしていた。
泣きべそをかいて逃げるのが、蒼宮家の柚華子。
「いやいや、気持ち悪いわ!さっさと放ってちょうだい!」
その後ろを、木の枝を持って追いかけるのが、朱宮 鹿乃子。
「どうしてー?これ、アゲハチョウのいも虫なのよ。可愛いでしょう?あんなに綺麗な蝶になるのよ」
「…あれが、お転婆でなくて、何だというのかね」
「でも、はつらつとして、可愛らしいではありませんか。まだ小さいのに、私が馬の世話をしていると物怖じせずに寄ってらっしゃいますし、引き綱なら、もう高さを気にせずお乗りになれます。武道の稽古をしていると、白宮に来たときなど、私の隣で見よう見まねの型を作ってらっしゃいますが、なかなかさまになっておりますし…」
和也は、自分の知っている『朱宮家のお転婆お嬢様』の話をしたつもりだった。
が、叔父様方は、この話を聞いて急に色めき立ち、中央の円卓に頭を寄せ合い、なにやら話し込み始めた。
「…?」
その輪が元通りに大きくなった頃、和也の疑問は少しずつ解けてきた。
「…ときに、和也。ここは、正直に答えてもらいたい。…お前、朱宮家に入る気はあるか?」
「えっ!」
「あの通り、いくら男勝りでも、鹿乃子は女子だ。当主継承権はない。それに、お前も四男では同じ事だ。朱宮に入ることで、お前には当主継承権が生じる。悪くない話だと思うが」
「それにな、今の当主が、文武両道…どちらかといえば武に勝る朱宮の家風に合うのは、和也が一番だと見立てたのだ」
突然のふってわいたような話に、和也は、驚くばかりだった。
しかし、ただ一つの点を除いて。
父である、白宮家当主が、怪訝そうに和也に尋ねた。
「和也。この部屋にいるのは、男ばかりだから、正直に申せ。…お前、今、心に秘めたる婦女子は、いるのか?」
和也は、間髪入れずに
「はい、おります」
と、答えた。
たちまち、部屋中にざわめきが広がる。
「それは、いったい誰だ?」
父上の重ねての問いに、和也は、ちら、と窓の外を見た。
窓の外では、まだ幼い女子二人の追いかけっこが続いている。
「…私がずっと、お小さい頃から可愛ゆいとお慕い申し上げている方は、ただ今、アゲハのいも虫を手に駆け回っている、お転婆な朱宮 鹿乃子姫であります」
そう、和也が答えると、部屋のざわめきは、いっせいに安堵のため息に変わった。
「…たく、上官をからかうものでない!」
「いやいや、和也お得意の諧謔と、少しばかりの含羞でありましょう」
叔父様方の声は、もう、和也には聞こえていなかった。
今よりもっと小さな頃、軽々とだっこしてあげると
「かじゅやちゃま、しゅき、しゅき」
とすがりついてきたのが、可愛くてならなかった。
(大人になったら、もう一度だっこするとは思わなかったなぁ…)
知らずに窓際に立って、飽かずに眺めていたら
「和也お兄様~!見てえ、ほら、可愛いいも虫でしょう!」
と言いながら、鹿乃子が走ってきた。
(虫めずるじゃじゃ馬姫君、か…)
くすっと笑いながら、和也は窓越しに、鹿乃子の差し出した枝へと手を伸べた。
(おわり)