2012年8月19日日曜日

はじめのはなし

あれは、今から10年くらい前の話だろうか。
もう、どこの家で行われた時だか、和也は忘れてしまったが
『お集まり』の席の途中で、四神会の筆頭である叔父様方の部屋に呼ばれたのだった。

「ほう、和也も襟に金星がつくようになったか。いつ陸軍幼年学校に入った?」
「今年からであります」
「ふむ、では十四か。二年間、せいぜい励むと良い」
「ありがたく存じます」

先日受けた口頭試問と大して変わらない…と、和也が心の中でため息をつこうとすると、
「ときに、和也。お前の将来について、この四人で話していたのだがな」
「はっ?」
「念のため訊いておくが、お前の代で、四神家に男子のいない系統はあるかな?」
和也は、黙って考える。

自分の実家である白宮家は、自分の上に三人も兄がいる。
玄宮家と蒼宮家は、まだ襁褓(むつき)も取れないながら、跡取り息子がいる。
と、なると…
「朱宮の伯父様のお宅、ですか!」
つい、声に出して手をぽん、と叩いてしまった。
「意外そうだな?」
「はい。あまりにじゃじゃ馬姫なので、御令嬢という気がいたしておらず…」
その率直な和也の返事に、その場の皆が大笑いしてしまった。

「す、すみません!朱宮の伯父様、鹿乃子姫のことを、つい…」
「いや、その通りだよ。窓の外を見るがいい」

和也が、促されるままに外を見ると、同い年の姫が二人、追いかけっこをしていた。
泣きべそをかいて逃げるのが、蒼宮家の柚華子。
「いやいや、気持ち悪いわ!さっさと放ってちょうだい!」
その後ろを、木の枝を持って追いかけるのが、朱宮 鹿乃子。
「どうしてー?これ、アゲハチョウのいも虫なのよ。可愛いでしょう?あんなに綺麗な蝶になるのよ」

「…あれが、お転婆でなくて、何だというのかね」
「でも、はつらつとして、可愛らしいではありませんか。まだ小さいのに、私が馬の世話をしていると物怖じせずに寄ってらっしゃいますし、引き綱なら、もう高さを気にせずお乗りになれます。武道の稽古をしていると、白宮に来たときなど、私の隣で見よう見まねの型を作ってらっしゃいますが、なかなかさまになっておりますし…」

和也は、自分の知っている『朱宮家のお転婆お嬢様』の話をしたつもりだった。

が、叔父様方は、この話を聞いて急に色めき立ち、中央の円卓に頭を寄せ合い、なにやら話し込み始めた。

「…?」

その輪が元通りに大きくなった頃、和也の疑問は少しずつ解けてきた。
「…ときに、和也。ここは、正直に答えてもらいたい。…お前、朱宮家に入る気はあるか?」
「えっ!」
「あの通り、いくら男勝りでも、鹿乃子は女子だ。当主継承権はない。それに、お前も四男では同じ事だ。朱宮に入ることで、お前には当主継承権が生じる。悪くない話だと思うが」
「それにな、今の当主が、文武両道…どちらかといえば武に勝る朱宮の家風に合うのは、和也が一番だと見立てたのだ」

突然のふってわいたような話に、和也は、驚くばかりだった。
しかし、ただ一つの点を除いて。

父である、白宮家当主が、怪訝そうに和也に尋ねた。
「和也。この部屋にいるのは、男ばかりだから、正直に申せ。…お前、今、心に秘めたる婦女子は、いるのか?」
和也は、間髪入れずに
「はい、おります」
と、答えた。
たちまち、部屋中にざわめきが広がる。

「それは、いったい誰だ?」
父上の重ねての問いに、和也は、ちら、と窓の外を見た。

窓の外では、まだ幼い女子二人の追いかけっこが続いている。

「…私がずっと、お小さい頃から可愛ゆいとお慕い申し上げている方は、ただ今、アゲハのいも虫を手に駆け回っている、お転婆な朱宮 鹿乃子姫であります」

そう、和也が答えると、部屋のざわめきは、いっせいに安堵のため息に変わった。
「…たく、上官をからかうものでない!」
「いやいや、和也お得意の諧謔と、少しばかりの含羞でありましょう」

叔父様方の声は、もう、和也には聞こえていなかった。
今よりもっと小さな頃、軽々とだっこしてあげると
「かじゅやちゃま、しゅき、しゅき」
とすがりついてきたのが、可愛くてならなかった。

(大人になったら、もう一度だっこするとは思わなかったなぁ…)
知らずに窓際に立って、飽かずに眺めていたら
「和也お兄様~!見てえ、ほら、可愛いいも虫でしょう!」
と言いながら、鹿乃子が走ってきた。

(虫めずるじゃじゃ馬姫君、か…)
くすっと笑いながら、和也は窓越しに、鹿乃子の差し出した枝へと手を伸べた。

(おわり)