2012年9月6日木曜日

エンゲージ・その後(2)

半刻も過ぎた頃だろうか、白宮家へ朱宮家の使者が訪ねてきた。
「恐れ入りますが、こちらに当家の鹿乃子様がおいであそばしますでしょうか?」
「ええ、蕗子様のお離れをお訪ねになりましてよ。ただ今、お二方でお話中でございます」

「えっ?蕗子様のお部屋に?」
驚く使者に、心得た白宮家の侍女頭は
「そうでございましてよ。何ですか、エンゲージを済ませてから、お心が落ち着かれない日があるというようなお話を、蕗子様にご相談あそばしてらっしゃるそうで…あらまあ、これは私のような分際で、口が滑りましたね。もしお話が長引くようでしたら、鹿乃子姫様もお馬でいらしたようですし、今宵は蕗子様の離れにお泊まりいただいて、明朝にでもお帰りあそばしていただくよう、こちらで取り図らせて頂きますから…」
ここまで立て板に水とばかり、見事に門前払いを食わされては、引き下がらざるをえない。

無論、心の裏では、使者も侍女頭も、本当の目的は分かっている。
互いの家の凛々しい末若様と、可愛らしくお転婆な姫君が、好き合ってたまらない故の所行だと。
エンゲージを交わしたお二人を、それでも引き離すほど、この使用人二人は野暮ではなかった。
それだけ、自分が使える家の方々を普段から敬愛して勤めている印である。

「…承知いたしました。手前は男の使用人故、貴いご婦人方のお部屋へ参ることはかないません。貴女の言葉を、そのまま御当主と奥様にお伝えいたします。宜しくお願い申し上げます」
「こちらこそ、玄関先で申し訳ございません…鹿乃子姫様は、確かに明日、朱宮家へお返し申し上げます故、どうぞご心配なきよう、お伝え下さいまし」

さて、鹿乃子さんは。

お約束通り、蕗子お姉様のお部屋で、ちんまりとしていた。

「…車の音がしたわ。ね、鹿乃子さん。もう和兄様の離れに行っても大丈夫よ?」
「そっ、そそそ、そんなっ。私、本当にもう少し、蕗子様に伺いたいことがあって…」
「あら、嬉しいわ。なあに?」
「…あの、あのう…すごく、聞きづらいんですけれども…蕗子様は、エンゲージされた方と、そのう…夜、ご一緒に…あ、朝までご一緒にいらしたこと、おありなんですか?」

思いっきり鹿乃子が単刀直入に尋ねると、蕗子お姉様は、口を袂で押さえて、鈴のような可愛らしい声で、ころころとお笑いになった。
「し、失礼な事を申し上げて、すみませんでした!」
鹿乃子が平身低頭すると、
「おつむをお上げなさい。本当に、鹿乃子さんって嘘がつけない方ね…。では、私も嘘をつかずに申しますわ。…エンゲージの時の夜、一度だけ、ございます」
蕗子お姉様のお答えに、鹿乃子はびっくりして
「い、一度だけなんですか?」
と、思わず聞き返してしまった。

「ええ、一度だけ。あちらも私も、あまりそちらの方は…それより、音楽を聴いたり、歌舞伎を観に言ったり、お茶席を設けたりする方が、好きなのですわ」
「な、なんだか…私、恥ずかしい、です…」
「まあ、どうして?」
蕗子お姉様は、にっこりとなさる。
「エンゲージした二人が、互いに楽しいと思うことを楽しむのに、どうして良い悪いがありましょう。逆に、私もこれでいいのかしら、と思うこともありましてよ。でもね、お互いがあまり好まないことは、無理にしなくてよろしいと存じます。その代わり、気の合うことは二人して十分楽しむのが良いと思いますわ」
「…はい!」
鹿乃子は、元気にうなずいた。

「…じゃ、和兄様の離れにご案内しましょう。お待ちかねよ、きっと。あ…それから」
言葉を途切れさせた蕗子お姉様に
「はい?」
と鹿乃子が尋ねると、
「…今夜は、少々お声はお控えなさってね?和兄様の離れは一番遠くてらっしゃるけど、でも、一応白宮家の敷地ですし、他のお兄様方の刺激にならないように…ね?」
そんな大人のお話をさらっとしてしまう蕗子お姉様は初めてで、鹿乃子は顔を真っ赤にしながら、ついて行った。

「案内が遅いぞ、蕗子…」
和也の離れへ着き、縁側から蕗子が障子を開けると、待ちくたびれた声が聞こえた。
まださっきの頬の赤みが治まらないまま、蕗子の後ろから、そっと鹿乃子が顔を出すと、いつもの軍服とも、エンゲージの時の洋装とも違う、鈍色の紬を着流しにして、博多献上の帯を締めた和也が、卓の前で腕組みをしていた。

「和兄様、ごめん遊ばせ。つい女同士、話が弾んでしまいまして。ね、鹿乃子さん?」
和也のいらいらなど意に介せず、後ろを向いてにっこりする蕗子を観ると、鹿乃子は
(ああ、やっぱり蕗子様も、まぎれもなく『四神家』のご気性なんだわ…)
と、妙に感心してしまう。

「…うん、まあ、確かに、お前がいてくれなかったら、鹿乃子を匿うことはできなかった。礼を言う」
「まあ、四人のお兄様方の中でも一番きかん気の和兄様から、そんなお言葉を聞くなんて、この蕗、初めてでございますわ」
「お前も、意外と茶化し屋だな。…さあ、エンゲージを済ませた者なら、俺たちの気持ちもそろそろ、察してくれないか?」
「そ、そんなっ、和也様ったら!」
兄妹二人の丁々発止のやりとりを聞いていた鹿乃子は、冷めかけた頬をまた赤くして言った。

「ほら、鹿乃子さん。さっきも申し上げたでしょう?今宵は、お声をお小さく…って。では、邪魔者は退散いたしますわ。ごきげんよう…」
微笑とともに、しずしずと障子が閉まり、足音もなく、蕗子は去っていった。

(まーだ続くよ~)