2012年9月2日日曜日

エンゲージ(5)

約束の、午後四時。
白宮家の執事と、朱宮家の春野が、ボーイに案内されて部屋に入ってきた。
無論、和也も鹿乃子も、帰り支度を済ませ、洋装で迎えを待っていた。
互いに服装も調え合い、何も落ち度はないはずなのだが、執事と春野は同時にため息をついて、こう言った。

「…お二人とも、お過ごし遊ばしましたね…?」
使用人二人に看破されてたしなめられ、二人は言い訳ひとつできずに、真っ赤になってうつむいた。

それから、しばらく執事と春野は話し合い…おそらく、帰宅してからの当主への対応や本人への話しなど…その後、互いに相手の家の婚約者とその付き人へ丁寧に挨拶を交わしてから、それぞれ、屋敷から差し向けられた車に乗り込んで帰路へ向かった。

「…お嬢様」
神妙に、でもどこか寂しそうに、春野は言う。
「お戻りになられましたら、御前様と奥様には、すべてのお伺いにご正直にお話くださいませよ?」
「…わかったわ。でも、ちゃんとお約束は守っていてよ。まだエンゲージの身、最後の一線は絶対に越えていないし」
「そういうことではございません。春野ごときが一目拝見して分かってしまうことが、ご両親様に分からぬわけがないではございませんか」

「そんなに、なにか…変…?」
さすがに、鹿乃子も心配になっておそるおそる訊くと、
「いくつもございますが…例えば、御目の下に隈が」
「いくつもって、まだあるの?あと何?」
「ご勘弁下さい、お嬢様。これ以上は、春野とて恥ずかしくて申し上げられません。直にご両親様にお聞き遊ばせ」
春野が真っ赤になってうつむくので、鹿乃子は
「そんなあ…」
と、困ってしまった。

一方、白宮家では。
一足早く帰宅した和也が、さっそく両親の部屋で質問攻めにあっていた。
「ふうむ…昨日の電話では、時すでに遅し、というところか?」
「どういうことでしょうか?自分と鹿乃子姫は、既にエンゲージした身。彼女の意向も汲んで、お互いの合意の上、無理のない範囲で…」
「しかし、そのなりでは、鹿乃子姫もしばらく往来を歩けまいて」
「えっ?!」

驚く和也に、父親に代わって母親が、
「和也さん、ご覧になっていなくて?目の隈もですけれど、洋装だからこそよく目立ちましてよ。首筋のあちこちに、くちづけの跡が残っていらっしゃるのを。鹿乃子ちゃんもお転婆さんだけれど、男のあなたが彼女に余計跡をつけていないとは、到底思えないわ。あなたはガーズの詰め襟で隠してしまえるけれど、あちらは女学校で和服、しかも断髪でしょう?うなじまで見えてよ」

「まあ、私たちのエンゲージやハネムーンの時の事を思い出せば、若気の至りというものも、確かにある年頃だからな」
「マア、貴方ったら」
「…それにしても、昔の私たちに比べれば、かなりの情熱家だということだな、…しばらく、鹿乃子姫とお会いするのは控えておけ。とりあえず、今日は私が朱宮の家へ電話を入れておこう。それから数日して、向こうの都合の良い時…鹿乃子姫が不在の時…を選んで、お前と私とで、改めてこの件でご挨拶に伺うことにしよう。何しろ相手は、四神家の筆頭、そしてお前も後々ひとかたならぬお世話をいただく、朱宮家なのだからな」

否、という権利など、和也にはない。
家父長制のもと、当主の権限は、位の高い家ほど絶対的であるものだから。

こちらかわって、朱宮家。
鹿乃子が困ってしまったのは、自分の姿を一目みるなり、母親がしくしくしく…と泣き出してしまったことだった。
話をしようにも、どうしようもない。
よくわからないながらも、妙に罪悪感にとらわれてしまう。

父親は…とみると、腕組みをしてしばらくだんまりを決め込んだあと、重い口を動かして
「…いいというまで、外出は控えなさい。お前の事だから、こちらで見張りをつける」

「どうしてですか?!私、お父様やお母様の教え通り、エンゲージの身分なのだから守るべき一線は決して越えませんでしたわ!天子様に誓って申し上げます!」
「…こんな話ごときに、軽々しく天子様の御名をお使い遊ばすものではない。不敬だ。…確かに春野の話によれば、お前の話に嘘はない。しかしな、その一線は越えなくとも、お転婆のお前が匍匐前進でも跳躍でもなんでもして、その他の越えられる一線は全て越えて、和也君と睦み合っていた様子が、こちらからすれば一目瞭然なのだよ、鹿乃子。…その姿では、ボッブヘアに銘仙を着て学校に通うなど、他のお嬢さん方への刺激が強すぎて、風紀を乱しかねん。ご迷惑だ。…だから、しばらくは家で慎むように、と言ったのだ」

異性の親にここまで言われてしまい、鹿乃子はこれ以上、もう何も口答えできなくなってしまった。自分の作った既成事実を前に、いつものお転婆も、今日は形無しだった。

母親が急に泣きやむと、つい…と長椅子を立って、鹿乃子の座っている一人用の洋式椅子の前にやって来た。
「お立ちなさい、鹿乃子さん」
言われたとおりに鹿乃子が立つと、母親はそっと手を差し伸べ、鹿乃子の顔から首にかけて
「ほら、ここに濃い隈が…。この首筋には強くくちづけた時にできる跡が。ここにも、うなじのここと、それからここにも…」

「わ…わかりました…お父様、お母様。確かに、最後の一線は決して超えませんでしたが…半日お船に乗ってお散歩をした他は、和也様も私も愛し合うのに夢中になって…ホテルのお部屋から、一歩も…出ませんでした…」

「そうでしょうねえ…でなければ、こんなにたくさん、こんなに強い跡を残すなんてできませんもの。鹿乃子さんも何もせずにいられるご気性とはとても思えません。きっと、今ごろ和也様のお体にも、お転婆な貴女がつけた跡がたくさん残っておいででしょう…」
母親の口調は柔らかだが、それがかえって鹿乃子にはつらい。

(ごめんなさい、和也さま。おこられるようなつらい思いさせてしまって、ごめんなさい)

「白宮家とは、四神家の中でも今後深いつきあいになっていく。今日の所は、私が白宮へ電話して、詫びを入れよう。それから後日、私一人で、白宮に直々に会って、改めて事のあらましと謝罪を申し入れよう。将来有望なガーズに、余計な噂が立ってはいかん」

(あんなに、楽しかったのに…二人して、夢中になれたのに…どうして、現実ってこんなに窮屈で、融通が利かないのかしら。和也さまに、会いたいのに…)
と、鹿乃子は思ったが、幼いときからの習い、当主の言葉には何人とも逆らえない。
もし逆らったなら、奥の倉から箱に収めてある家宝の日本刀を持ち出し、鼻先に突きつけるくらいの事はやりかねないだろう、というくらい、底に激しさを秘めている父上だから。

(つづく…長いですが)