2012年9月5日水曜日

エンゲージ・その後(1)

しばらく、二人はそれぞれ自分の屋敷で蟄居の身となった。
もちろん、手紙も電話も取り次いでもらえない。

白宮家は遠く、朱宮家から見えるはずもない。
なのに、気がつくと鹿乃子は、幾日も日がな窓際に立ち、ぼんやりと外を眺めていた。
(ああ、伝書鳩でも飼っておけばよかったわ…)

「…お嬢様。時が解決いたします、今しばらくご辛抱あそばせ」
春野が、小さな洋杯を銀の盆に捧げて、やってきた。
「それは、なあに?」
「葡萄酒でございますよ。少々こちらをきこしめして、おやすみあそばせ。落ち着かれますよ」
「それを飲むと、眠くなるというわけね?心安らかに」

春野の言葉に、鹿乃子のお転婆の血がざわざわと騒ぎ始めた。

「…春野。お願いがあるの。一生のお願い!」
「お嬢様の『一生のお願い』は多すぎて、もはや不老不死の域でございますよ。…で、何ですの、お願いとは?」
「あなた、私のかわりにこの葡萄酒を飲んで、…ううん、私に言いくるめられて無理矢理飲まされて、ここの私の寝台に寝ていて頂戴!お願い、理由は…聞かないで」
「聞くも何も、理由は明々白々だと存じますが…まあ、この杯を持って参った私の、不覚でございましょうかね。よござんす。では失礼して、一献…」
くいっとやると、春野は本当に酔ってしまったようで、瞬く間にコテン、と鹿乃子の寝台の上に倒れ込んでしまった。
「有難う、春野。あなたは、名文家の上に、名女優だわ」

鹿乃子は、春野に一礼すると、さっと和箪笥を開け、いつも乗馬の時に付けている、紺色の馬乗り袴を取り出した。女学園の制服とは、もちろん違う。
あっという間に、今着ている銘仙…鮮やかな黄色地に青の流水模様が織り出された、いかにもお転婆さんらしい…の上へ着付け、紐はさすがに女らしく、蝶結びにして端を前へ長めに垂らした。

使用人用の廊下を使って(普段から仲良くしておくものである)屋敷の外へ出た鹿乃子は、迷うことなく馬小屋へ走った。
薄暗い中でも、馬丁の手を煩わせず、一人で支度はできる。
大好きな白妙に乗りたかったのだけれど、宵闇の中、白馬は目立ちすぎて、今日は我慢。
次に気の合う、流星に乗って、鐙に編み上げ靴のつま先を差し込む。

「お願いね、静かに…でも速く、ね。和也様のいらっしゃる、白宮家へ」
手綱を軽く一降りすると、鹿乃子のささやきをわかったかのように、流星はしずしずと裏門を出て、その後はパッと速歩で進んでいった。
(往来の大通りを通っていったら、さすがにまずいわ…川沿いの、並木道を使った方が…)
手綱さばきも鮮やかに、得意の乗馬で、鹿乃子は流星を疲れさせないように御した。

並木道は、さすがに街灯もなく、暗闇が勝る。
流星の足下をおもんばかって、鹿乃子はゆっくりと歩を進めていく。

…すると。

対面からも、蹄の音が聞こえてきた。
遠く、次第に近く。

(誰…?この道は、この時分にはめったに人通りのないはず。追っ手にしては、向きが逆だし…)

上品な、こなれた乗り方。
…どこかで聞いた、見たことのある、乗り方。そして、

「…鹿乃子?」

自分の名を呼んでくださる、優しいその声。

奇跡みたいだった。
何も示し合わせていないのに、同じ日の、同じ時間に、同じ並木道で会うなんて…

「和也さまぁ!」
何のためらいもなく、鹿乃子は叫んでいた。

「何てことだ…あるんだな、こんな事って…」
「私…私も、今、そっくり同じ事を、考えていました…」
「暗くなってきて、心配だったが…その、はっきりした黄色地の銘仙で、鹿乃子だと思った」
「まあ…時には、お転婆な着物も、役にたつものですね…」

お互いに、相手に会いたくてたまらなかったのだと実際に確かめることができて、もう胸がいっぱいになってしまい、二人ともいつもより、口数が少ない。

「おいで…うちの離れへ」
和也は、馬の首を反対に向けさせながら、優しくいざなう。
「えっ、でも今は、皆様が和也様をお捜しでは…」
「雅兄が、いま身代わりで俺の部屋にいてくれてる。それに、鹿乃子は、蕗子の部屋で匿うことになってるから。朱宮家よりは都合がいいと思うが…?」
「蕗子お姉様まで…?!」
「エンゲージを済ませた娘同士、お前が蕗子の所へ相談に来たとでも言えば、まあ言い訳もたつさ。どうだ?」

白宮家のお兄様方や蕗子お姉様に、こんなに心配していただいていたとは、鹿乃子には想像もつかなくて、ただもう、そのお優しさにありがたくすがらせていただきたいと、和也様を想うあまり、すっかり甘えてしまいたくなって、

「嬉しい、です…。お言葉どおり、甘えさせて、いただきます…」
「お、おい鹿乃子、乗馬中に泣いたりしちゃだめだ。流星が心配そうにしてるじゃないか」
「…はい。…すみません、私らしくありませんね。せっかく、お会いしたかった和也様と、こうして二人、お馬に乗っていられるのに…」
銘仙の袖でそっと涙をぬぐうと、改めて、鹿乃子は手綱をしっかりと持ち直し、和也の馬に続いた。

(つづく…な、長いな…書きためてたので…)