2012年6月18日月曜日

傘、ひとつ。

塾が終わって玄関ロビーへ出ると、ガラス張りの壁越しに、強い雨脚が映る。
(やっぱりね…)
数学のベクトルを解いている辺りから、外の音が気になってはいたのだ。
でも、有理の他の受講生はそんなことお構いなしに、講師の先生の話に耳を傾けながら、カリカリとシャーペンを動かし続けていたので、すぐ、意識をこちらへ戻したのだった。

雨は、あまり好きではない。
両親が別れたのも、雨の夜だった。
父と母のどちらを選ぶか、と迫られても、ベクトルのように一直線に決められるわけもなく、より多くの時間をそれまで過ごしていた母に、有理の親権は渡った。
そのときの、うまく言えない居心地の悪さを、雨が思い出させるのだろうか。

男と女だからって、うまく恋愛が成立しないのだと、幼心に有理は学んだ。

雨だからって、傘を持ってきているのだ。
なにを思い煩うことがあるのだろうか。

有理が、玄関の泥よけに立って、大きな緑色の傘を開こうとした、その時。
隣に思案顔で立っている、同じクラスの少女が目に入った。

彼女は、いつも制服姿で、時間ぎりぎりに教室へ駆け込んでくる。
この校舎からは少し離れたところに建つ、お嬢様学校の高等部生らしい。
駆け込んでくる割には、紺襟に白のブロード地のセーラー服に乱れもなく、きっちり編み込まれた三つ編みの先には、いつも紺色のゴム。
校則なのだろう。

私服登校の有理からすると、別世界というか、昭和初期からタイムスリップしてきた少女のように見えた。
同じ制服の生徒がいないのと、学校のランキング話からするに、礼儀作法を第一に重んじる骨董品の高校にしては、頭のできが良すぎてしまって、遠くの塾へ通っている…という噂だった。

このクラスで最下位グループ、いつランク落ちになってもおかしくないような通いっぷりの有理とは、えらい違いだ。

彼女は、傘を持っていないらしかった。
地味な白地のハンカチで顔を押さえながら、どうやって帰ったものか、思案顔といった様子。
でも、だれかにその窮状を訴えるような感じは、見られなかった。

だから、有理のほうから、自然に声をかけていた。
「…あんた、傘、ないの…?」
三つ編み少女は、自分に話しかけられたと始め気づかなかったらしく、眼をまん丸にして有理を見た。
そして、こくん、とうなずく。
「迎えとかは…?」
二つめの有理の問いには、しばらく少女は黙っていた。

「…ないわ。…親と離れて、学寮に住んでるから…」
「そっか。…うちも、リコンして親が働いてるから、迎えなんかこないわ~」

すると、またしばらく間があいて、三つ編みはぽつん、とつぶやく。
「いいじゃない、親がいるだけ。…私、施設を出て、奨学金で今の学校へ行ってるのよ…」
有理は
「えっ、奨学金で、塾まで行けるの?」
「成績が、良ければね。後輩への門戸も開けるわ。でもクラス落ちしたら、同時に退校よ」

心底からの声で、有理は言った。
「あんた、すごいのねえ…」
三つ編み少女も、返してくる。
「あなただって、大変じゃない。私には親の記憶がないから、未練も後悔もないの。これが当たり前。でも、あなたは修羅場を見てるわけでしょう? その方が、私はつらいと思うわ」

有理と三つ編み少女の間には、いつの間にか、奇妙な連帯感めいた感情が生まれていた。

有理は、黙って緑色の傘を、むん、と三つ編み少女に突き出す。
「…な、何?」
「貸す!」
「そんなこと、したらあなたが、ぬれちゃうじゃない?!」
「平気。うちの学校、私服だから。あなたは、その綺麗な制服を、ぬらしちゃいけない」
「…哀れんでるの?」
「違う!! …あ~っ、ぐだぐだ言わないで、損得抜きの人の好意は素直に受けるもんよ!」
「…好意、なの? この傘…」

かえって、そう問い直されると、急に恥ずかしくなって、有理はかあっと赤くなった。
「く、くれるんじゃないんだからね! 来週のこの講義の時は、忘れず返してよっ!」

「…うん、わかった。来週、忘れずあなたに返すように、持ってくる。…ありがとう」
ぎゅっと長い傘を抱きしめるようにして返事をする三つ編み少女は、妙に可愛らしい。
「じゃっ、また来週!」
「ええ、また来週」

荷物を抱え込むようにして、そう遠くない駅まで、有理は振り向かず走り出した。
冷たい雨が、なぜだかぽっぽっと熱い頬を、気持ちよく冷ましてくれた。