2012年4月11日水曜日

るみこさん

るみこさんは、はっきり言って仕事ができない。
なのに、私より年上で、給料も(おそらく)多くもらっているのが、私には我慢できない。
でも、それをどこに、誰に吐き出したらいいのか、それも私には分からない。
人の悪口を言うと、自分の表情が汚くなる…私はそう、思っているから。

そのせいでか何なのか、るみこさんは、私を見るといつもにこっと笑う。
「おはようございます」とか、向こうから言ってくる。
るみこさんから「お疲れ様でした」の声を聞くことは、まずない。
彼女は要領が悪くて、あちらこちらで雑用をいいつけられ、おそくまで残業しているのが常だから。

バカなんじゃないの、と思う。半ば本気で。
家族もいるんだろうに、この人、おどおど笑いながら、なにやってんだろう。
同僚が陰で笑い合ってるのも知らないようで、能力もないのに、毎日何をあくせくやってるんだろう。

「あの人は、他の人より給料、安いのよ。ここ、やられちゃってから」
数日後のランチで、お局格の先輩が、頭の横で人差し指をクルクルさせながら言った。
「…え?」
思わず私が声をあげると、
「あら、白壁さん、知らなかったの? 有名な話よ。あの人、マタニティブルーから鬱病になっちゃって、2年ぐらい傷病休取ってたの。だから、お情けで復職させてもらってもあんなだし、ダンナは愛想尽かして出て行っちゃったらしいから、実家に子供預けて、かろうじて仕事してるってわけ。もちろん、昇級のスピードは同期よりはるかに遅れを取ってるしね」
お局は、一気にまくしたてた。

私は、一気に気分が重くなってしまった。
なぜか。
母の叔父にも、全く同じ症状の人がいるからだった。
ご機嫌伺いにいっても、いつも無表情で、あぐらをかいた背中しか見たことがない叔父。
どこかうす気味悪い雰囲気を、子供の頃から感じていた。
でも、母から無表情の訳を聞いたとき、自分ながらにメンタルな病気については人より理解をもって見られるようになってきたつもりだ。

だから、お局の「頭の横で人差し指クルクル」には、正直、その偏見ぶりがかなり頭にきた。
しかしまあ、わたしも大人なので、お局の顔にお冷やをかけるようなまねはしない。
「すいません、ちょっと気分が…」と言って、ランチの場を抜けさせてもらった。

職場へ戻ろうとする私の目の前に、お弁当箱を持って近くの公園へむかうるみこさんが見えた。
こんな時間にまだ食べていないなんて、相変わらず仕事がのろ…いや、遅かったんだろう。
「あらぁ、白壁さん? 早いんですね、もうお食事終わり?」
そう、るみこさんは、誰にでも敬語を使う。
迷惑をかけたが故の謙譲なのか、人とうまくやるための処世術なのか。
「え、ええ…。今日は、あまり食欲なくて。るみこさんは、これからですか?」
「そうなのー。午後の会議の支度をしてて。でも、そんなの必要ないって、また怒られちゃった」

ふふ…と慣れたように笑って、るみこさんは木陰のベンチに腰をかけた。
「お隣、いかが? 私、すぐ済んじゃうから」
「あ、はあ…」
背もたれのない、石造りのベンチに両端、間を開けて、私とるみこさんは座った。

るみこさんのお弁当箱は、小さかった。
「量、少ないですね。こんなんで、足りるんですか?」
「んー、足りないけど、でも、子供の給食費とか、学校のお金とか、かかるから」
その(意外に)母親らしい言葉に、私はとっさに二の句が継げなかった。

「私はねー、何でか知らないけど、途中から病気して、まっとうな人生送れてないけど。でも、子供にはせめて、人の役に立つような、どこに出しても恥ずかしくないような人に育ってほしいからねー。…ま、私も、今はお薬を飲んでるおかげで、人並みまではいかなくても、何とかお勤めさせていただいてるし」

るみこさんの言葉には、他の誰一人を責める単語が出てこなかった。
ランチでテーブルを囲みながらしゃべり合う同僚たちが、浮かんだ。
急に席を立った私のことが、今度は悪口のネタになっていないとは、誰にも保証できない。
でも、きっと目の前のるみこさんは、私の悪口を言わない人なんだろうな、と、思う。

どん底まで傷ついて、そこからはい上がって、心の痛み方を実際に知っているだろう人、だから。

1時5分前の鐘が鳴って、公園の鳩が一斉に飛び立つ。
「戻りましょうか、るみこさん」
「はいー、そうですねぇ」
プランプランとお弁当箱の包みをさげて、私の後ろを追いかけるように歩く、るみこさん。

ふと振り向いてその包みを見たら、「ななこ」と、るみこさんがマジックで書いた字が踊っている。
おそらく、るみこさんの子供のナフキンなんだろう。
そんな子供のお下がりを無頓着に使っている、るみこさんをちらりとみた。
にこっ、といつも通り、声を出さずに笑う彼女。
私はあわてて前を向き、なぜだか緩みそうになる涙腺を見せまいと眉間に力を込めた。